「やった」と「できた」事実はどっち??〜DID人間とは
「料理がうまくできた!」
「英語で外国人と話せた!」
「100mを14秒台で走れるようになった!」
人間、達成感を味わうと人生を謳歌できるものだ。
そして達成感を味わえるのは、過去・現在・未来の3時点の中で、唯一「過去」だけである。
過去の出来事は、不変の事実だけを残すのだ。
関ヶ原の戦いで家康が勝ったという事実も、
トランプが大統領になったという事実も、
全て過去の出来事で変わることのない事実だ。
(https://cdn.utaten.com/uploads/images/lyric/108076/mo15070201.jpegより引用)
そしてその「事実である過去」を解釈するのは、他の誰でもない我々人間だ。
実は人間の過去の解釈には、二通りある。
「できた」と「やった」
英語で言えば
「could do」と「did」だ。
意外にも英語に訳すと違うことがわかるが、複雑すぎる言語なのか、日本語で見るとあまり違いを感じない。
しかし「できた」と「やった」では
信用度が全く違う。
例えば、それぞれの言葉の前に「偶然」という副詞を交えて文を作ってみよう。
「偶然料理が上手くできた」
「偶然料理を上手くやった」
「偶然外国人と英語で話せた」
「偶然外国人と英語で話した」
「偶然100mを14秒台で走れた」
「偶然100mを14秒台で走った」
おそらくほとんどの人が、二つの文を比較してみて、下の文に違和感を感じたはずだ。
それもそのはず。
過去は「偶然に起こったこと」ではなく「起こったこと」なのだから。
当たり前のことかもしれないが、ここを再認識するとしないとでは大きく違う。
偶然に英語で話せるはずはないし、たまたま14秒台で走れるわけもない。
主体性を伴った過去(I did〜の文)であれば、それは偶然できたことではなく、あなたがスキルを持った持たない関わらず、行動を起こしたことで生まれた結果なのだ。
一方で「I could do〜の文」は、あくまで可能性の指標なので、人によっては上手くできたと思っていた料理をできていないと評価するかもしれないし、話せていたと思っていた英語が全く彼らには伝わっていないかもしれない。
「できた」という可能性の定規には、上下の幅があるのだ。
そしてその幅は、人によって指し示す場所が違っている。
ある人は1〜5をできると思うかもしれないし、またある人は3〜8をできると思うかもしれない。
つまり「できた」は「やった」のような不変の事実ではなく、主観客観的に解釈が変わる「可能範囲的解釈での事実化」にすぎない。
わかりやすく換言すれば、口だけの自己満足なのだ。
「上手に料理できたよ!」というのは真実かどうかわからないが、
「料理したよ!」であればそれが真実かどうかははっきりわかる。
一方で後者の文には、クオリティー云々の内容は入っていないので、やったかやっていないかの「0 or 1」で事実認識ができる。
故に
「I did〜」は事実であると証明でき、
「I could do〜」は人によって解釈が変わり事実とは言えないと証明ができる。
あなたは人に何かを伝える時、
「〇〇ができた」と伝え、自己満足の人間でいたいですか?
それとも、
「〇〇をした」と伝え、事実を語る信用ある人間になりたいですか?
ぼくは真実を語れる、そんなDID人間になりたい