哲学せよ!で世界を正しく見る

オープンソース時代、情報も選択肢も急増した。そして真実に盲目になり、非効率な選択をする人も…哲学は疑問し真実を求め、根源を常に求める。その根源は、人間であることに必ず由来する。

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』~「愛してる」と「好き」の哲学~

「お客様がお望みなら、どこでも駆けつけます」

by ヴァイオレット=エヴァーガーデン


http://anihonetwallpaper.com/image/2018/01/44096-Violet_Evergarden-PC.jpg

より引用)

 

 

 

あなたがアニメについて、

どのような価値観を持って鑑賞しているのかは

僕には到底わからない。

 

 

しかし、少なくとも僕は

アニメとは「哲学の宝庫」だと感じている。

 

 

哲学とは、

その人の生き方や考え方、価値観だ。

 

 

だからアニメを見ることは、

作者やファンの価値観を感じることになる。

 

 

 

今回の記事の題材となっている

ヴァイオレット・エヴァーガーデン』というアニメは

「愛している」についての哲学が描かれている。

 

 

そして本記事の内容は、

僕が『ヴァイオレット・エヴァーガーデン

外伝 -永遠と自動手記人形-』を

実際に鑑賞して感じたこと、

考えさせられたことを綴っていく。

 

 

 

 

① 「好きを伝える、愛してるを伝える」

 

 

そもそも僕がこのアニメを見ようと思ったのには、理由がある。

 

僕には「好き」と「愛」の違いがわからない。

もっと言えば、

異性を「好きになる」ということがわからない。

 

 

例えば、町中を歩いていて

とてもきれいな女性がいた。

「かわいい」と思った。

 

 

この感情は「好き」なのだろうか?

 

これが、ぼくにはわからない。

 

 

 

一方で「愛」に関しては、

ある程度の説得力ある解釈ができている。

 

 

「愛」というのは普通、表面上には出ない。

「愛されている」となんとなく感じるしかない。

「愛」とは、二者間の関係性の深さや親密さのこと。

そして「愛」という漢字を使った言葉はたくさんある。

 

愛鳥、愛犬、愛車、愛書、愛人

 

言葉から察するに、

「愛」とは、その「愛する」対象を

どれだけ大切に思っているのか

という指標なのだろう。

 

だから、普段言葉にしない「愛してる」を

手紙や言葉に綴ることは

大変価値のあることなのだと思う。

 

 

「愛」は言葉にしてもしなくても

無限に続く存在なのだ。

 

 

 

では、「好き」とは一体何なのだろうか。

 

僕も男の子だから、

過去に女性を「好き」になったことはある。

けれどそれを振り返ってみると、

その女性の何が「好き」だったのか

までは説明ができない。

 

 

ルックス、声、髪、匂い、背丈、シルエット、仕草

 

 

人を「好き」になるには理由があると思う。

 

けれど僕はまだ、

なぜ人を「好き」になるのかを理解できていない。

人の何を「好き」になるのかがわからない。

 

 

いや、

もしかしたら説明できない好意こそ

「好き」の真髄なのだろうか。

 

 

 

 

なかなか整理がうまくいかないので、

「好き」と「愛」の関係性が壊れたとき

について考えてみたいと思う。

 

 

 

②「愛してると好きの関係性」

 

 

まずは「愛」について。

 

例えば、

あなたの「愛犬」がある日なくなってしまったとする。

 

これは非常に悲しいことだ。

何が悲しいかというと、

「愛する者が失われたこと」が悲しいのだ。

 

 

けれど、

たとえ愛する対象の存在が亡くなったとしても、

自分のその愛は消えないはずだ。

 

しかし、確かに確実に薄れてはいく。

 

だからその「愛」を

言葉にしたり手紙にしたりするのだ。

 

 

自分がその者を

愛していたという事実を一生涯忘れないために

 

 

このアニメからは、その大切さを教わった。

 

 

 

 

次に「好き」について。

 

「好き」が失われる場面は、

いわゆる「失恋」のときだ。

 

 

告白して振られたとき、

恋人に別れを告げられたとき、

 

そのときにあなたはこう感じるはず。

 

 

「私の好きは報われなかった」と。

 

 

自分の好きが伝わらなかったとき、あなたはどうするか。

 

おそらく「好き」の対象を変更しようとするはず。

 

 

「好き」とは「共感ベース」なのだ。

 

つまり自分の「好き」を

相手がどれくらい受け止めてくれるのか

という潜在数値によって

自分の「好き」度合いも変わってくる。

 

 

ここが「愛」と「好き」の

違いなのだ。

 

 

 

 

 

一方は関係性が崩れても、

その関係性を保とうとする。

 

そして一方は関係性が崩れれば、

新たな関係性を構築しようとする。

 

 

つまり

「好き」は崩壊する

「愛」は崩壊しないのだ。

 

 

経済用語で言えば、

「好き」は取引費用

「愛」は機会費用

 

 

・取引費用の考え方

これまで取引していたA社よりも

安価に取引してくれるB社が現れたら、

取引相手をB社に乗り換える。

 

まさに「好き」と同様の考え方だ。

 

 

 

機会費用の考え方

これまで取引していたA社よりも

安価に取引してくれるB社が現れたが

それでもB社と取引しようとする。

 

まさに「愛する」と同様の考え方だ。

 

 

 

ここで「好き」と「愛してる」をスクエアで見てみよう

 

表面に出す

表面に出さない

好き

告白する(好きは伝わる)

好きは伝わらない

愛してる

愛されていると伝わる

愛されていると感じる

 

この中で、最も生産的な方法・手段はどれか?

つまり「最も取引費用的な考え方」はどれか?

 

 

考えてみてほしい。

 

 

 

この中で最も生産的な手段は、

 

「告白すること」だ。

 

 

なぜなら「YES」か「NO」かがはっきりするからだ。

 

ちなみに「愛してる」の2項目は

どちらも機会費用的な考え方に属するから

生産性云々の考え方の概念がない。

 

つまりは、この問いの選択肢は

4つあるように見えて、

実は2つだったのだ。

 

 

 

③「ヴァイオレット・エヴァーガーデンと永遠」

 

 

「愛してる」と「好き」の違いについては

かなり合点がいったと思う。

 

では、最後に『ヴァイオレット・エヴァーガーデン -外伝- 永遠と自動手記人形』という映画のタイトルが残したかったメッセージについて伝えようと思う。

 

 

先に申しておくが、これはもちろん個人的な見解だ。

作者の意向との関係性はおそらくないはずだ。

その前提を、ぜひ忘れないで読み進めてほしい。

 

 

 

 

まずは、似て非なる二項を抜粋する。

 

主人公ヴァイオレット・エヴァーガーデンever

永遠と自動手記人形のforever

 

 

 

次に、言葉の意味だ。

 

ever」は一度でも経験したときに使う

forever」は文字通り永遠

 

 

 

この2つの言葉を見て、感じたことはないか?

 

 

 

そうだ。

 

 

 

「愛してる」と「好き」と

関係性が同じなのだ。

 

 

好き」は「ever

愛してる」は「forever

 

 

 

どちらも消えない事実であるが、

関係性の長短に大きな違いがある。

 

 

もちろん

「愛してる」もいつかは消えてしまう。

 

だから、

失くさないように

消えないように綴るのです。

 

 

手紙に残して

 

 

 

関係性を「陸橋」だと思ってください。

 

 

ある橋が壊れて、新たな橋を建設するのは

「好き」の考え方。

 

 

逆に橋が壊れて、その橋を修復しようとするのは

「愛してる」の考え方。

 

そしてその修復に当てられるのが、

他でもない「手紙」という存在。

 

 

 

アニメや映画の中でも、度々こんな台詞がありました。

(手紙)配達人は、幸せを届ける仕事」

「時代が変わっても、変わらない仕事がある」

 

 

「変わらない幸せ」の比喩となっているのが

「手紙」であり、

「愛を伝えるツール」なのだ。

 

 

 

そして最後の最後に、

作者がこの作品を通して

何を一番伝えたかったのか考えてみてほしい。

 

 

僕はこの作品から、こんなメッセージを受け取った。

 

 

=========

スマホが普及して時代はネットでつながる社会になった。

生活も効率化し時間がより有効活用できるようになった。

しかし何かがない。なにかが足りない。

人の大切さとは何だったか。

人は愛で繋がっているのではなかったか。

現代には愛がない。愛情が足りない。

子どものご飯はコンビニ弁当になった。

言葉の伝達もLINEを介してのやり取りが主流になった。

Amazonから自宅に商品が届くようになった。

けれど年賀状はいつからか届かなくなった。

そして書かなくなった。

「愛してる」を伝える時間はどこにいったのか。

「愛してる」と伝える大切さを伝えたい。

 =========

 

 

主人公ヴァイオレット・エヴァーガーデンは、

自らの愛する人を失った。

 

自分の「愛してる」は

一生届くことはない。

 

それでも彼女は、

誰かの「愛してる」を

その大切な人に届けるという

仕事を続けていった。

 

 

たとえその届け先が

戦場であっても、

どこにいるのかがわからなくても

誰かの「愛してる」を届けるために。

 

 

 

 

 

p.s.

 

本アニメを制作したのは、京都アニメーションです。

先日、大変残酷な悲劇がありました。

そんな中でも、

僕たちアニメファンに「愛してる」を届けるため

映画を上映してくれたのです。

 

何人もの哲学者がなくなりました。

けれど、彼らは「アニメ」という手紙を残して

誰かの心に残り続けるのです

『白黒理論』の哲学

 
「白を知りたければ黒を知り、

黒を知りたければ白を知れ。」

 (http://1.bp.blogspot.com/-XajtN6uvHKo/Vdd0_5kCRLI/AAAAAAAAIjg/REJTGSp9YYk/s1600/811liThCnsL._SL1500_.jpg より引用)

 

 


営業商社に入社してから、

もうすぐ半年が経つ。

 

 

 

僕は営業が嫌いだった。

 

 

 

けれど、だからこそ

あえて営業でも厳しい商社を選んだ。

 

 

 

 

 

 

さて、この世の中に

こんな選択をする人はいるのだろうか。

 


こんな選択ができる人はいるのだろうか。

 

 

 

 


そうやって自分の特別感に浸らないと

自分が壊れそうになるような

激務の日々を僕は過ごしている。

 

 

 

 


けれど、そう悲観することもない。

 

 

 

なぜならこれは

決して自慢話をしているわけではなく、

僕は自分の足りない力を

補うためにする努力ができるという

事実なのだから。

 

 

 

 

 

 

 


これまでもそうだった。

 

 

 

 


僕は小学生時代、サッカーが下手で

試合にほとんど出してもらえていなかった。

 


地元のクラブで試合に出られなかった僕は、

エスペランサという

アルゼンチン人監督が率いる

サッカースクールに通って

上達する術を他にも用意してもらった。

 

 

 

するとそこでは

ディフェンダーの適性を見出されて、

なんとA〜Dあるチームの

最上位のAチームのサイドバック

務めるようになった。

 

 

 

もともとディフェンスが苦手で

ディフェンスをしなくていい

フォワードを地元のクラブでは

プレーすることが多かった。

 

 

 

しかも中学に上がる時のセレクションでは

地元クラブでは万年ベンチだった僕が

合格してしまった。

 

 

 

親も疑問感じていたみたいだが、

監督に聞いてみたところ

「予測が早い。反応が早い。インターセプトが上手い。インテリジェンスなプレーヤーの特徴です。だから合格になるのは当然でしょう」

 


そう言われました。

 

 

 

この時が、人生で初めて成長を感じた場面だったと思います。

 

 

 

 


自分が苦手だと、嫌いだと思っていたものも

意外と自分の適性に合うものだと、初めて知ったのです。

 

 

 

その頃からですかね、

僕が、苦手なことや

やったことのないことに

挑戦するような選択を

心がけるようになったのは。

 

 

 

何故そうするかって?

 

 

 

 


簡単です。

 

 

 

 


「成長を強く感じられるから」

 

 

 

 

 

 

 


ポケモンドラクエというゲームを

やったことがある人は多いと思います。

 

 

 

例えば、

1レベルのポケモンのレベルを

10にまで上げるのと

50レベルのポケモンのレベルを

60まで上げるのとでは、

どちらが成長を強く感じるでしょうか?

 

 

 

もう一つ例を。

 

 

 

0歳が10歳になるのと

50歳が60歳になるのと

どちらが成長を強く感じるでしょうか?

 

 

 

おそらく100%近い人たちが

満場一致で前者と答えたはずです。

 

 

 

 

 

 

成長の難しさを考える時、

0→1になるのと

30→31になるのとでは

それが大きく違います。

 

 

 

今まで経験したことのない分野で

つまり経験0の環境で

これを1にすることは

大変難しいことです。

 

 

 

これは会社の起業後の存続率や

人間の年齢ごとの死亡率などを考えれば

理解が早まると思います。

 

 

 

 


先ほどの僕の例で言えば、

ディフェンス経験0だった僕が

2年間ディフェンダーとして

練習を繰り返したおかげで

ディフェンダーとして

セレクションに合格したわけです。

 

 

 

 


成長を感じることは

生きているという実感になります。

 

 

 

 


そして逆に、

人は自分の成長を感じられなくなると

生きることに楽しさを感じなくなります。

 

 

 

歳を重ねていくと

成長を感じることは難しくなり、

むしろ相対的に

退化を強く感じることになるでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただ、一方で、

僕と逆の考え方をする人もいるでしょう。

 

 

 

 


自分のできることをやり続けていく

得意分野をさらに得意にしていく

 

 

 

そういう考え方です。

 

 

 

 


たしかに、AI時代が近づく現代では

一つの専門性に特化した方が

市場評価は高いのかもしれません。

 


しかし、もし仮にその武器が取り上げられるような事態が起こったら?

 


AI時代で代替される仕事はたくさんあります。

 

 

 

もしそんな取って代われる仕事の分野に

自分が精通しようとしたところで

10年の努力が無駄になってしまう。

 

 

 

 


だからこそ、僕はさまざまな分野に

顔を出したり挑戦をしたりしている。

 

 

 

サッカーができなくなっても

野球ができる。

野球ができなくても

バスケができる。

バスケができなくても

卓球ができる。

卓球ができなくても

ダンスができる。

 

 

 

そんな、多才な人間でありたいと

僕は日々願っている。

 

 

 

世の中には「生物の多様性」ならぬ言葉が

存在している。

 

 

 

 


そして僕は、こうも考えている。

 

 

 

 


「人間こそ、多才であることを

許された唯一の生物なのだ」と。

 

 

 

他の生物ができて、

人間にできないことは

この地球上にあるのだろうか?

 

 

 

おそらくない。

 

 

 

いや、正確に言えば「なくなった」だ。

 

 

 

大昔は鳥のように空は飛べなかったが

今は飛行機が飛んでいる。

しかも、鳥たちよりも早く高く。

 

 

 

物資を運ぶ役割を

古来は馬や牛が担っていた。

 


それが今では

車や自転車、電車や船など

あらゆる輸送機関ができている。

 

 

 

 


我々人間は歴史の中で、

他生物にできて人間にできない

そんなウィークポイントというべき

分野でも具現化をしている。

 

 

 

 


「人間は不可能を可能にしてきた生物」

なのだと断念してよいだろう。

 

 

 

 


つまり人は、

 


「できないこと」

「できなかったこと」

「できないであろうこと」を

 


全てできるようにしてきたのだ。

 

 

 

 


この「人間の多才性」を僕は信じて

自分という一人の人間を創る上でも

その多才性を求めて生きてきた。

 

 

 

新卒入社では

もっとも自分の能力から遠いであろう

「営業」を選んだ。

 


受験の時は

数学:90

理科:80

社会:85

英語:80

国語:60

という点数幅で、

明らかに理系だったが

国語ができないからと

あえて僕は文転した。

 

 

 

また、大学入学当初まで

本なんて一切読んだことがなかったから

500ページを超える本を買って読んだ。

 

 

 

 

 

 

 


僕には人生哲学の一つとして

『白黒理論』という考え方がある。

 

 

 

これは僕が作った言葉だ。

 

 

 

 


どういう意味を示しているかというと、

自分が白であることを知るために

まず自分から一番遠い

補色関係の位置する黒から知っていく。

 

 

 

つまり、

自分から一番遠い存在を知ることが

自分という人間を知るためには

最も早いという考え方だ。

 

 

 

自分が黒であることを哲学すると、

紺よりの黒なのか

灰色混じりの黒なのか

わかったもんじゃない。

 


服を選ぶときに

こんな悩みを感じたことのある人は

きっと多いはず。

 

 

 

 

 

 

 


話を黒白理論に戻すと、

 


「黒を知りたければ、白を知れ!」

「白を知りたければ、黒を知れ!」

 


僕が人生を謳歌するために

最も大切にしている考え方だ。

 

 

 

 

 

 

あなたは、自分が大切にしている考え方を

何か一つでも持っているだろうか?

 

 

 

 


いや、持っているに違いない。

 


持っていないわけがない。

 

 

 

もしわからないのであれば、

過去の自分に聞くといい。

 

 

 

過去の選択が、自分の性格や選択傾向、

考え方や大切にしているであろう

価値観を必ず見出してくれる。

 

 

 

 


あなたは、未来を知りたいと思いませんか?

 

 

 

未来を知るためには、

まず過去を知らなければなりません。

 

 

 

 


『白黒理論』

なぜ信用経済になったのか~哲学で切る未来~

ブログ、ツイッターフェイスブック、インスタグラム、ライン

おそらく、ここにあるSNSツールを

使ったことがない人はいないでしょう。

 

 

いやはや、時代とは大きく変化したものですね。

 

僕もここにあるツールは、全てやっています。

 

 

 

SNSをやっている人~?」という質問に

99.9%の人はYESと答えるでしょう。

 

「やっていませんよ~w」という人は、おめでとう!!

あなたは、現代において希少な存在です。

 

 

 

 

では、YESと答えたみなさんに

もう一つこんな質問をしてみたい。

 

 

 

 

「あなたはなぜSNSを使っているのですか?」

 

 

 

 

「便利だから」と考えた人は、

きっと多いのではないのでしょうか。

 

 

もちろんそうです。

 

 

遠く離れた家族や友人と、地理的な概念を無効化して

時間を共有することができますからね。

 

 

けれど、僕が思ったことはそういうことではないんです。

 

 

「なぜ、SNSが必要とされる世の中になったのか」

という根幹の部分に疑問を感じたのだ。

 

 

あなたも生活していて日々感じていると思うが、

世界は今大きな転換期に直面している。

 

 

 

最近、巷でよく言われているのが

「信用経済」という言葉です。

 

 

聞いたことのない人のために

パッとわかりやすい説明をすると、

 

「信用のある人が勧めているモノを買う」

 

 

つまり、

「あの人が大丈夫って言うなら大丈夫だろう」

的な感覚を無意識的に発動して、

自らの選択によるストレスを軽減する。

 

これが「信用経済」の一面です。

 

 

 

我々がSNSを日常で使っているのは、

この信用経済と大きな因果関係がある

 

 

と僕は感じたのです。

 

 

 

 

今回は、なぜ「信用」が現代で重要視されるようになったのか

について書き綴っていきます。

 

 

 

 

 

①    自由化

 

 

・結婚相手の選択の自由

職業選択の自由

・居住・移住の自由

・電気の自由化などなど

 

 

現代では「自由」の概念が当然とされています。

 

現代風に言い換えれば、

「自分が生きたいように生きる」

といったところでしょうか。

 

 

しかし、こんなすばらしい観念ができたのは、ここ半世紀

 

いや、この10年くらいだろう。

 

 

 奴隷制や不自由を脱し、

我々はとうとう個人としての自由を手に入れたのです。

 

おそらくこれは、歴史から見ても紛れもない事実だ。

 

 

 

しかし、逆にこう考えるべきなのかもしれない。

 

「我々は、自由を手に入れすぎた」

 

 

 

私的な話で申し訳ないが、こんな話をしたい。

 

僕は営業商社で働いていて、

その仕事の中で「電気の自由化」に関係する仕事に

携わっていたことがある。

 

この具体例から「自由」についての話を勧めていきたい。

 

 

電気の自由化について、知らない人がいるかも知れないので

専門的な立場からサラッと説明します。

 

電気の自由化とは、地方電力会社

(東京電力関西電力など9)から

新電力会社に切り替えることで、

割引の恩恵を受けることを言う。

 

ちなみにこれを知らない人たちや

全く切り替えるつもりのない人たちも、

20204月までには全世帯が

新電力プランに切り替わります。

 

 

しかし、ここでこんな事が起こります。

 

A社:月割引率2%

B社:年20万以上使用で割引率4%

C社:月2000円引き

 

では、ここで質問です。

 

「ここにあるAC社の中で、

あなたにとってベストな会社はどれですか?」

 

 

おそらく、この質問に瞬間的に答えられる人は

世の中にいないでしょう。

 

しかし、この3択ですら答えられない現代人に

2000社を超える新電力会社の中から

1社を選択することができるのだろうか。

 

 

 

気づいた人もいると思うが、

「自由化」したことにより

選択肢」が増えすぎたのだ。

 

 

つまり、選択肢が増えすぎたことにより

自分にとってどの選択肢が最適となるのか

全くわかりかねる状況が生まれたということだ。

 

 

これを

「需要の多様化」というべきなのか

「供給の多様化」というべきなのか

僕にはわからない。

 

 

しかし、ここからわかることの一つとして

選択肢が多い世の中だからこそ、

その道に精通する信用ある人の選択を真似るのだ。

 

 

そうすれば、わざわざ選択に悩む必要がない。

 

ウィルパワーの減少を、最小限に食い止められるのだ。

 

 

SNSを駆使して、みなが「ブランド人」に

なろうとしているのは、

自分がある道に精通する者になれば、

自分を頼りにする人達が集まり、

そこに広告でも打っておけば、

マージンがもらえる。

 

「信用経済化」がもたらしたのは

「個人化」なのだ。

 

 

まとめるとこんな感じだ。

 

=========

様々な分野での自由化

市場参入の容易性拡大

競合他社の飽和状態

選択肢の飽和

自分に最適な選択肢がわからない

信用ある人に聞く

信用ある人の選択を選択する

ここで自分もブランド人(専門家)

すれば儲かると気づく

極度に需要の高いマーケット、あるいは

競合が少ないマーケットに個人で進出

フォロワーないし登録者数を集める

そこに集まる人は自分が持つ

専門的な情報に集まっていることに気づく

その情報を公開する

この公開しているSNS媒体に広告を打つ

マージンをもらう

============

 

 

 

これが「信用経済」の一連の流れだ。

 

 

もともと結婚相手や仕事先が

決まっていた前近代と全く違う

ということは明らかで、

どうやら近代では「人」が

大事になることは

間違いないらしい。

 

 

 

②    信用と安心と信頼の違い

 

「信用」と似た言葉に、

「安心」と「信頼」がある。

 

 

 

「信用」とは言い換えれば「クレジット」

つまり、利害関係が絡む関係なのだ。

 

銀行や保険などを考えれば、

理解ができるだろう。

 

 

「信用」とは

一見人と人がつながっているように見えて

実は「お金」で「人」と「人」が

つながっているだけなのだ。

 

では、「安心」や「信用」は

どうなのだろうか。

 

 

これら2つについても、

僕は明確な違いに気づいている。

 

=========

・安心・・・対物的な心情

      また集団においての観念

・信頼・・・対人的な心情

      また個人においての観念

=========

 

 

わかりやすくするために、

以下に3つの質問を用意した。

 

 

・海外の人々は、日本に対してどう思っているか。

→安心?信頼?

 

・あなたはTOYOTAの車をどう思っているか。

→安心?信頼?

 

・あなたはTOYOTAをどう思っているか。

→安心?信頼?

 

 

 

答えは、上から

 

「安心」

「安心」

「信頼」

 

 

となる。

 

 

 

最後の問いは非常に難しいかもしれないが、

人間にはそもそも2種類ある。

 

「自然人」と「法人」だ。

 

我々人間は前者にあたり、

TOYOTAは後者にあたる。

 

 

 

③    信頼と信用の違い

 

「安心」と「信頼」については説明してきた。

次に考えるべきなのは、

「信頼」と「信用」についてだ。

 

 

これに関しては、

結論から話したほうがいいだろう。

 

=======

・信頼・・・不利益を被っても、守りたい人間関係

・信用・・・利益を担保した上で、守りたい人間関係

=======

 

 

例えば、あなたの親友が財布を忘れたとする。

そんな彼・彼女があなたに

1000円貸してほしいと言ってきた。

ここであなたがお金を貸せば、

二人には「信頼関係」ができていると言える。

なぜなら、貸した彼・彼女が

あなたに返す保証などなく、

明日突然違う場所に消える可能性もある。

つまりあなたは、

経済的に1000円の損失を出す

可能性があったにもかかわらず、

親友に1000円を貸したのだ。

これが「信頼関係」の真髄だ。

 

ではもう一つ。

あなたはTOYOTAの社長だとする。

ある日、部品の取引先A社から

こんなことを言われる。

「来月から取引額が

1000万円上がって5000万円になる」と。

ちなみに部品の市場価格は、

4500万円とする。

ここで、あなたには少なくとも2つの選択肢ができる。

 

=======

1.A社との取引を続け、5000万円支払う。

2.B社との取引を開拓し、4500万円支払う。

=======

 

このとき「1」を選択した場合、

あなたとA社には

「コミットメント関係」があるといえる。

 

そして「2」を選択した場合、

あなたとA社には「信用関係」があり、

またB社とも「信用関係」を築いた。

 

 

 

ここで、初めて出てきた言葉がある。

 

「コミットメント関係」

 

これは「信頼関係」とかなり似ていて、

 

先程の例で言うと

「取引費用の損失(安さを選ばない)」

よりも

機会費用の損失(コミット関係を壊す)」

を恐れるような関係性ということだ。

 

 

つまり、一見対比的に見えた

「信用」と「信頼」は、

どこか集合的な考え方で捉えられるのだ。

 

信用関係の中にも、信頼関係はあるのだ。

 

 

 

④    囚人のジレンマと資本主義

 

囚人のジレンマは、

哲学や社会学の中で

しばしば扱われる考え方である。

 

簡単に言うと、

世界中の人々が世界中の人々を信頼すれば、

世界は最も合理的に利益を得られる

という考え方だ。

 

気になる人は、

ぜひ調べて見てください。

 

 

ここで考えるべき真実は、

世界中の人々が世界中の人々を信頼するなど

99%できない、という事実。

 

 

理論上の最適解を差し置いて、

みな自分の利益となる行動ばかりを

選択しているのだ。

 

 

 

それも当然。

 

これが「資本主義社会」なのだから。

 

 

 

 

日本のバブル景気を思い出してほしい。

 

 

 

なぜ日本が「ジャパン・アズ・ナンバーワン

と呼ばれるような時代を見せたのか。

 

 

おそらくそれは、

日本人が日本人を信頼し合い、

自らの利に溺れるのではなく

社会が最も有益になるような

選択を取り続けてきたからだろう。

 

 

それがいつからか、

自分の利を優先するようになり、

バブルの崩壊をもたらした。

 

 

日本人は「信頼関係」によって

囚人のジレンマを突破し

世界で唯一最合理的な社会を築き上げたのだ。

 

 

そんな日本が、なぜここまで落ちたのか。

 

 

 

⑤    グローバル化

 

グローバル化は、信頼関係の天敵だ。

「信頼」によって築き上げられるのは

機会費用」優先の経済。

一方で、グローバル化が築き上げたのは

「取引費用」優先の経済。

 

つまり、「安ければ安いほどよい」という

社会観念を作り上げたのがグローバル化なのだ。

 

 

現在の日本も、対外関係では悪戦苦闘している。

そのほとんどが「利害関係」だ。

 

ロシアとの北方領土問題も、

排他的経済水域による漁獲権争い。

 

韓国との貿易問題も

精密機器などの企業の利益の争い。

 

 

グローバル化する前の日本は

世界で最も優れた企業を揃える

最も優れた国であった。

 

しかし、それがグローバル化によって

一瞬で崩れ去った。

 

 

要因は様々あるかもしれないが、

もしかしたらグローバル化

日本を陥落させるためのメソッドだったの

かもしれないと、僕は睨んでいる。

 

 

 

⑥    競争社会と資本主義社会

 

資本主義社会が世界の主流になっているが、

この観念が利益を最大化しないというのは

これまでに説明してきた。

 

 

資本主義の観念に近い言葉に

「競争」という言葉がある。

 

 

しかし、現代世界にある競争は

本当の競争ではなく、

資本主義に準ずる競争になってしまっている。

 

 

 

ちなみに「競争」の「競」には

こんな語源がある。

 

「競」の漢字の成り立ちは、

二つの「立」と二人の「兄」から成る。

 

「立」は「神」を意味し、

兄たちのどちらがより神に仕えられるのか

というのを「祈り」を通して

競い合っている。

 

これが「競争」の本質だ。

 

 

資本主義社会を解脱して

紳士に競争に向き合っているのは

「〇〇道」と呼ばれる競技に

信仰している人のみであろう。

 

 

その他の世界に住む人間は、

神への信仰を競い合う中で

資本や何かを他者と競い合い

それでもって神に取引を持ちかけ

勝ち負けを決めようとする

 

これが「資本主義的な競争」であり

一般的な競争の考え方である。

 

 

本当の競争社会になれば、

資本や云々を勝負材料とせず、

企業の技術力や研究力、

教養力を駆使して

他者を上回ろうとする。

 

 

こんな世界、どこにもない。

 

 

 

と、思っていませんか?

 

 

実は、あったのです。

 

 

それは「教育時代」

 

 

社会人になるまでの人間たちが競い合おうとすると、

資本以外のなんたらで勝負するしかないのです。

 

ある人は運動能力で

ある人は知識力で

ある人はリーダー力で

 

 

最近インフルエンサーたちが

日本教育は~だ」と

卑下することが多いような気がします。

 

「社会人になったら使わない」

 

そう一言だけ伝えて、

成り上がっている感を演出するのだ。

 

 

しかし、気付いてほしい。

 

 

そんなことを言う人達が住んでいるのは、

「資本主義的な競争社会」であって

自分の利益を優先する人たちが

介在する社会であって、

利益が最大にならないような社会である。

 

 

つまり、資本主義社会こそが非合理的なのだ。

 

 

そこまでわかった僕は、

今後の日本や世界に何を望むのか。

 

 

⑦    日本国の地方化

 

 

地方と都市の経済格差は、言うまでもない。

 

地方は過疎化が進む一方で、

都市は過密化する一方だ。

 

もちろん地方の中でも

過疎化の改善を施している都市もある。

 

 

しかし、ぼくはどこかこう願っている。

 

「地方が、もっと不便になって人がいなくなればいいのに」と。

 

もちろん、これは卑下的な意味合いではない。

 

要するに、戦後の日本と同じ状況を

意図的に創り出すのだ。

 

何もない場所ができれば、

人間の本能である「開拓欲」が発動する。

 

この何もない場所に

150人の人が集められたら

その小さな区域で最適化しようと

経済圏を作り出すだろう。

 

 

しかし、本当に何もなくなったわけではなく

物物は存在している。

 

イメージとしては、

朝起きたら自分以外の人が街から消え、

あなたが外の地域から人を呼び集め

そこで経済発展を遂げるというようなイメージである。

 

一見不便のように見えるが、

おそらくこんな時代は15年後くらいには

どこかの地域で必ず起きる。

 

そんなときに活躍するのが、

ITであったりAIであったりなのだと思う。

 

人間は人間にしかできないことを、

その他はAIにやってもらい

経済構成を最適化していくのだ。 

 

このようにして「小さな政府」のような

「小さな都市」を日本中に創り上げられれば

社会的利益は最大化されるはずである。

 

互いが互いを信頼しあい

安心できるような社会の構築。

その上で他地域の人々と競い合い

進化発展をさらに遂げていく。

 

 

 

 

さいごに

 

 

僕はこの記事を作成するために、

18冊の本を読んだ。

 

その半分が中国哲学の本だった。

 

しかし、この記事に哲学的な観念は

あまり入っていなかったように思えたのではないか。

 

 

それもそのはず。

 

 

ここに綴った見方は、

僕が哲学を通して身につけた

「根本を疑う能力」を使って

現代社会の側面を切っただけなのだから。

 

 

この記事で「シミュラクラ現象」などという

言葉は出てこなかったはず。

 

 

 

「氷山の一角」で例えればわかりやすいかもしれない。

 (https://i.dailymail.co.uk/i/pix/2016/08/16/17/374AD15B00000578-3743492-A_jutting_iceberg_location_unknown_its_vast_moulded_peaks_viewed-m-53_1471366152376.jpg より引用)

 

われわれ現代人の、それこそ99.9%は

海面に出た氷山にしか目が行かない。

 

しかし「哲学」を学べば、

「なぜ氷山が海面から出るのか」を

考えるようになる。

 

そうして哲学していく間に、

海中の氷には空気に触れる氷の

8倍もの体積があることに気づく。

 

 

ここで、最後にこんな問いをあなたに投げたい。

 

 

真実は氷山の一角か?

それとも

その8倍もの体積を持つ海中の氷か?

社会貢献企業と関わりたい~社会的価値の高い企業の特徴とは?

社会的価値の高い企業に務めたい。

http://tokyo-seikei.com/wp-content/uploads/2016/04/0b5a23200e0591cf82adea24baa3824f.jpgより引用) 

 

 

先日、僕は転職先に求める

企業の3条件について答えを出した。

 

 

キーワードは

「大学」

地方自治体」

SDGs

 

これは、自分の利己的な欲求から

結論づけたものではない。

 

 

 

僕にはこれといった

情熱的な目標がなかったということについて、前回の記事で説明した。

 

そして

目標の設定の仕方には2種類ある

ということについても説明してきた。

 

 

詳しくは、こちらをご覧ください

↓↓

https://blog.hatena.ne.jp/winterhorse25/winterhorse25.hatenadiary.jp/edit?entry=26006613394490123(「目標の設定の仕方」)

 

 

 

さて今回の記事はなぜ

「大学」「地方自治体」「SDGs」

と関わりの強い企業が、

社会的な価値が高いと言えるのか

について解説していく。

 

 

 

 

大学

 

不安定な社会において

いつの時代もどこの国でも

持っている不満を最初に社会にぶつけるのは

必ず「若者」だ。

 

そして

学校という若者の住む教育世界と

社会の中心となるビジネス世界

これら両極の最も近くに位置する若者は

「大学生」である。

 

企業は会社を経営していく上で、

もちろん永く続くことを望む。

 

しかし、時代によって

社会の価値観や需要は変動していくものだ。

 

2000年代以降は特に

時代の変革スピードが加速している。

 

つまり

需要の変動・移り変わりや

流行り廃りが活発に起こっているのだ。

 

企業はこの早い変化の兆しに

いち早く気づかなければ、

マーケットの争いで

優位に立つことができない。

 

 

永続に失敗してしまう。

 

 

例えば、

自分が就職した企業が

3年後に潰れてしまったとしたら、

それは自分が持っていたビジョンの達成の前に

ビジョンもろとも崩壊してしまった

ということと同じである。

 

だから

企業は社会の需要の変化について敏感で

価値観の変化にも柔軟に対応することのできる

そういった人たちと強く触れ合える

ポジションを取らなければならない。

 

それが、

大学と繋がっていることの重要性だ。

 

企業が「大学」という機関と相互関係になれば

大学生にとっては教育になり

就活の足がかりにもなるし、

これはお互いにとってメリットになる。

 

 

地方自治

 

ここでいう地方自治体とは

「都市」のことだ。

 

市町村と言えば、わかりやすいか。

 

都市とは、

ギリシア世界に「アゴラ」と呼ばれる

「集会」が出現した頃から考えられた

コミュニティの概念である。

 

これは非常に合理的な方法で、

人間は集まることで、

必ずどこかのコミュニティの話をする。

 

そしてその

非自覚的な問題意識の顕在化は、

コミュニティにおいて「意見」となる。

 

(別に話そうと思っていなかったが、

同僚4人とランチに出かけると

気づいたら会社の話をしていたりするあれだ)

 

 

この頃のコミュニティの存在意義は、

意見を集め市民活動を行うためのもの。

 

つまり

現代においての都市の存在意義も、

市民の意見を集め活動するもの

であるべきということだ。

 

しかし

現代では都市の

コミュニティとしての力は弱い。

 

おそらく

自分の暮らす市町村の人口よりも、

自分の支持するYouTuber

インスタグラマーのチャンネル登録者数や

フォロワー数の方をよく知っている。

 

 

情報社会のせいか、

灯台下暗しとなってしまっている。

 

遠くを知ろうとして

近くにある存在を忘れてしまっているのだ。

 

しかし

だからといってこの現実を

否定しているわけではない。

 

21世紀になってから

コミュニティの概念が変わっているのだ。

 

元来

リアルでしか存在し得ないコミュニティは

SNS世界で実現したのだ。

 

今では「コミュニティ3.0」ならぬ

概念まで発起し始めている。

 

そして僕は、

この「コミュニティ3.0」に注目して

「都市」の大切さに気づかされた。

 

 

どういうことか。

 

 

コミュニティ3.0とは、

既存のコミュニティに

外部の者が侵入することで

イノベーションが起こり

地域が活性化していくことを言う。

 

 

わかりやすいもので言えば、

ふるさと納税陸前高田の復興などがそうだ。

 

 

現代人に

「あなたが所属するコミュニティは

どこですか?」と聞いても、

自分の暮らす地域を答える人は少ない。

 

 

実は、あなたがこれに答えようと浮かんだ

そのコミュニティは、

あなたが強い帰属意識を持つ

コミュニティであり、

問題を発見する対象になる存在である。

 

例えば

この質問に「Twitter」と答えたのであれば、

あなたはSNS世界にいることの満足感を

強く感じており、

そこでどのような考えや価値観が

芽生えようとしているかの

兆しを見つけられるだろう。

 

 

 

地方と都市の二極を頭に浮かべてほしい。

 

 

都市というコミュニティへの帰属意識は、

地方に傾くほど高くなり

都市にいくほど低くなる。

 

 

この「都市への問題意識」が

日本全土で低くなっているせいで、

地方の問題は一向に解決に結びついていない。

 

これも灯台下暗しで、

自分の暮らしている地方の素晴らしさよりも

都市のなんとなくすごそう感に

魅力を感じる人が多いのだ。

 

 

ちなみに僕は、

日本社会が後退していっている理由を、

人口が最適化していないからだと考えている。

 

 

 

そんな僕は

フェアトレードタウンの運営をしていて、

自治体や企業の社長、大学の教授など

様々な分野の人が

集まって意見を交わし、

途上地域の貧困を助けるため

地域を活性化させるために

日々活動している。

 

 

人は、

どの時代もどの年代の人も

必ずどこかの都市に属する。

 

 

そして

自分の住む都市の市民活動に参加することは、社会的な自立を意味している。

 

 

たくさんの若者が

「自立のため」と

名義をうって都会へいくことは、

単に「親からの自立」であって

「社会的な自立」にはならない。

 

 

世界は人間が生み出した技術によって

急激な変化をしているが、

その一方で人間の本能の面は

100200年単位ではまず変わらない。

 

 

だから

義務教育で日本人は歴史を学ぶのであり、

10002000年前あるいはもっと

昔の時代から変わっていない部分こそが、

人間の本質的で不変的な部分なのだ。

 

 

AIが台頭してきている近年、

人間としての本質が問われてくる。

 

それを就活を通して

1年半以上考えて出してきた僕の答えが、

人間にとっての「都市」の大切さ

ということだ。

 

そして

企業が永続していくためには、

その人間の不変的な部分との

関わりを強めていくことが大切だと考え、

都市と連携の強い企業を

僕は転職先に求めている。

 

 

SDGs

 

SDGs」

というものをご存知だろうか?

 

これは国連が定めた世界の共通目標である。

詳しくは、ご自身で調べてみてください。

 

 

さて、

なぜこのSDGsに取り組む企業が強いのか。

 

キーワードは「株主」だ。

 

 

最近少しずつ聞くようになった

ESG投資」

 

これは

企業の社会貢献努力なるもので、

身近な言葉では「CSR」がそれに最も近い。

 

 

このSDGsに取り組む企業は

多くの株主から投資資金を集めることができ、事業の継続や改善、新規事業の開発など、

永続するための企業活動をしていきやすい。

 

 

僕は

私利私欲に溺れた

損得ベースの事業判断をする企業が嫌いだ。

 

それは、

その考えでは人を幸せにできないと

考えているからということも確かにあるが、

何よりも企業の持続可能性が低い

と考えているからだ。

 

自分のビジョンに対して

企業がその達成の前に倒れてしまっては、

自己実現もなにもない。

 

だから

SDGsに取り組む企業には魅力を感じるし、

自分がその事業に携わることが

自分の社会貢献欲求を満たしてくれる

と考える。

 

 

  

最後に

 

これらのすべての考えの始まりは、

僕が就活を始めた去年

201821日まで遡る。

 

 

このときから、

僕にはこれといったやりたいことがなかった。

 

ただ、ある時代のキーワードだけは

知っていた。

 

 

 

 

AI

 

 

 

 

瞬間的に僕は、

AIにはできない仕事をしようと思った。

 

それから4ヶ月の就職活動を経て、

僕は自分の大嫌いな「営業」の強い

営業商社への内定を承諾した。

 

 

そして就活が終わったあとも、

僕は就職活動ならぬ

人生活動を続けていた。

 

 

自分のことや社会のこと、

色々な物事や考え方を

知るための活動をたくさんしてきた。

 

その中で詐欺にもあった。

 

色々あって、今年4月に入社。

 

今月で5ヶ月目に入るが、

やはり僕は営業職には向いていない。

 

人にものを売るという行為が、

やっていていい気がしないのだ。

 

本当に相手が必要なモノならいいのだが、

商材は全くそういうものではない。

 

その影響もあって、

今の会社に入って転職しようと思ったことが、この4ヶ月で2回もある。

 

転職について考える中で、

僕は去年の就活で

AIに奪われない職業」を考えて

企業を探していたことについて、

かなり守りの思考をしてしまった

ということに気づいた。

 

 

そして、

新たに学ばなければならないと考えたのは

「人間の人間たる本質的な部分」

 

 

「哲学」や「主義・思想」が

まさにそれである。

 

 

それが今、

東洋哲学の書物をたくさん

読んでいることにつながる。

 

 

今回は

自分のキャリア形成のために、

人間の本質的な部分や

AI時代など様々な要因から逆算して、

自分が転職すべき企業を導き出した。

 

 

そしてこれからも

僕は人間の本質的な部分を

たくさん知っていくことになるだろう。

 

だからもしかしたら

また違った解を導き出すかもしれない。

 

 

ちなみに

僕が現職の営業を今すぐやめない理由は、

営業職に務めることで

得られるスキルが

営業力以外にもたくさんあることに

きづいたからだ。

 

 

そのことも、

まとまった考えができたら

記事にしていこうと思う。

 

 

https://blog.hatena.ne.jp/winterhorse25/winterhorse25.hatenadiary.jp/edit?entry=26006613394490123(「目標の設定の仕方」)

夢を哲学せよ~「目標」の導き出し方~

「人生をかけてやり遂げたいことは、一体何だろう。」

 

 

僕の社会人生活は、こんな自問自答から始まった。

 

 

 

僕はいままで、これといった目標を持ったことがない。

部活動、受験、就活、それらをすべてなんとなくやっていた。

もちろん手を抜いてやっていたわけではない。

実際レギュラーで出場したし、受験も学費免除で通える大学に受かったし、内定も人のいい会社からもらった。

だから、その日々が無駄だと思っているわけではない。

けれど、何故か釈然としない今日このごろ。

もっと熱量を持ってやっていたらどうなっていたのだろうか。

そんなアナザーワールドの自分を考えることが増えた。

人はそれを「後悔」と呼んだりする。

しかし、僕は過去の自分を悔いているわけではない。

なぜなら、今こうやって人生を振り返る機会・考える機会に出会えているからだ。

 

 

なるほど自分の人生を振り返ったとき、僕はなんの目標もなく日々を過ごしていた。

そのことに社会人になって気がついた。

 

 

ことの発端は、仕事を楽しく感じられないと自分が思っていることに気づいたことから始まった。

 

そしてその原因はおそらく、自分に目標がないから頑張れないのだと仮の結論を出してみた。

 

 

 

目標というのは、ある種の憧れ希望、おそらくそういった類いのものだと思う。

つまり目標とは「自分がやりたいこと」だと換言できる。

 

しかし、ぼくにはその「やりたいこと」がなかった。

 

 

最近僕が読んで考え方が似ていると感じた著書『公共性主義とは何か』には、こんな文言が書かれている。

 

=======

「行動には感情や情熱が必要で

いくらそこに想いがあっても

人間はそれだけでは行動に移せない」

=======

 

 

この文は僕が要約しているが、たしかにこの言葉は論理的に正しい。

 

あなたも「行動が大事」と頭の中で理解はしているが、なかなか実際に移すことはできていないはずだ。

 

 

 

話を戻すが、振り返ってみれば僕にも目標はあった。

 

「レギュラーになりたい」

「志望校に合格したい」

「良い企業に就職をしたい」

 

 

自分が立てた目標たちを実現してもなお、自分の選択に疑問を持ってしまっているのは、間違いなく「情熱」や「感情」が足りなかったからだろう。

 

 

 

幼い頃の僕は、些細なことで泣いていたし、仕返しに人を泣かせたりもした感情豊かな少年だった。

 

それが程なくして、僕は理性的になっていた。

 

わかり易い例を出すと、陽キャ陰キャなったようなものだ。

 

 

 

そのくらい僕は変わった。

 

 

変わらないことといえば、全時代の同級生に「ヤバイやつ」扱いされていたことくらいだ笑笑

 

 

しかし、いつからだろう…僕が感情を失ったのは。

いや、正しい表現をすれば「感情を抑えるようになった」といったほうが良いか。

 

 

 

いずれにしても、今の僕は感情をほとんど表にしない。

 

おそらくそのきっかけは、高校の同級生に言われたある一言が原点になっているような気がする。

 

「お前は黙っていればモテるんだけどな~」

 

 

これによって僕が黙り決め込み、感情を表に出さないようになった、とすれば

自分にとっての「かっこいい人」は「無口な人」と解釈したからなのだろう。

 

 

ただこの推測はかなり正しいと思っていて、

なぜかというと、僕はその頃からアーティストの「GACKT」を好きになったからだ。

 

 

あなたの知る「GACKT」は、おそらく口数少な目で佇まいの美しい男

であるはずだ。

 

 

無論、これは僕が彼を知ったときの第一印象だが。

 

 

もちろん、好きになったきっかけは「音楽」だ。

 

僕も彼も異質という面では同じ部類であり、僕はある意味共鳴してしまったのだ。

 

 

GACKT歴というべきかわからないが、僕が人間「GACKT」を好きになって今年で6年目になる。

 

そして今では、異質さの中での異質さを見つけられるまでに成長した。

 

 

例えば、彼は「悩むことは停滞・後退」としているが、

僕は悩みについて「自信をつけるチャンス」と思っている。

 

 

理由については省略するが、もしコメントで気になるという人が出るのであれば、喜んで共有します。

 

 

 

 

我々は人間である以上、理性も野生も両方あるのは間違いない。

 

 

しかし僕は、野生先行の生き方は人間のすべき生き方ではないと思う。

 

 

せっかく弱肉強食の生物ヒエラルキーから逸脱している存在なのに、

なぜもう一度野生の世界に戻るのかわからないからだ。

 

 

だから僕は「競争社会」は好きではない。

 

「共存社会」になればいいのにとずっと思っている。

 

 

 

野性的な人間とは「感情的で情熱的で、夢を持った人」のこと指している。

 

こういう人が、自分の夢に対して貪欲であり、達成するために全力で取り組むのである。

 

 

けれど人間みな野性的かと言われれば、そうではない。

 

僕もどちらかというと、野性的ではない方の部類だ。

 

 

 

ここで、もう一つ考えなければならないことがある。

 

 

 

野性的な人には達成したい目標がある一方で、理性的な人には達成したい目標があるのか

 

 

 

 

僕はこれに関して、すでに答えを導き出している。

 

答えは「YES」だ。

 

 

 

僕は理性的な人間だから、目標に貪欲に取り組めないのかもしれない。

たしかにある種の決めつけ・固定概念めいているかもしれないが、

もちろん諦めをつけるためにこんな事を言っているわけではない。

 

 

むしろ「目標の種類が違う」ということに、このことから気がつけたのだ。

 

 

 

 

どういうことかというと、野性的な人の目標は非常に利己的な一方で、理性的な人の目標は社会的な課題の解決に置かれることが多い。

 

 

もっと簡単に言うと、目標の立て方が違うのだ。

 

 

===========

野性的な人:「~したい」→目標を立てる

理性的な人:「~すべき」→目標を立てる

===========

 

 

これに気づいた僕は、自分のやりたいことからではなく、

自分のすべきことから目標を立てられることに気がついた。

 

 

それは社会課題であったり、時代の流れであったりから立てることができる。

 

 

そして昨日から今日にかけて、とうとう自分の人生・仕事を通してすべきことが明確になった。

 

それは、、、

「やった」と「できた」事実はどっち??〜DID人間とは

 

 

 

 

「料理がうまくできた!」

「英語で外国人と話せた!」

「100mを14秒台で走れるようになった!」

 

 

 

 


人間、達成感を味わうと人生を謳歌できるものだ。

 

 

 

そして達成感を味わえるのは、過去・現在・未来の3時点の中で、唯一「過去」だけである。

 


過去の出来事は、不変の事実だけを残すのだ。

 


関ヶ原の戦いで家康が勝ったという事実も、

トランプが大統領になったという事実も、

全て過去の出来事で変わることのない事実だ。

https://cdn.utaten.com/uploads/images/lyric/108076/mo15070201.jpegより引用)

 

 

そしてその「事実である過去」を解釈するのは、他の誰でもない我々人間だ。

 

 

 

実は人間の過去の解釈には、二通りある。

 

 

 

「できた」と「やった」

英語で言えば

「could do」と「did」だ。

 

 

 

意外にも英語に訳すと違うことがわかるが、複雑すぎる言語なのか、日本語で見るとあまり違いを感じない。

 

 

 

しかし「できた」と「やった」では

信用度が全く違う。

 

 

 

例えば、それぞれの言葉の前に「偶然」という副詞を交えて文を作ってみよう。

 


「偶然料理が上手くできた」

「偶然料理を上手くやった」

 


「偶然外国人と英語で話せた」

「偶然外国人と英語で話した」

 


「偶然100mを14秒台で走れた」

「偶然100mを14秒台で走った」

 

 

 

おそらくほとんどの人が、二つの文を比較してみて、下の文に違和感を感じたはずだ。

 


それもそのはず。

 

 

 

過去は「偶然に起こったこと」ではなく「起こったこと」なのだから。

当たり前のことかもしれないが、ここを再認識するとしないとでは大きく違う。

 

 

偶然に英語で話せるはずはないし、たまたま14秒台で走れるわけもない。

 

 

 

主体性を伴った過去(I did〜の文)であれば、それは偶然できたことではなく、あなたがスキルを持った持たない関わらず、行動を起こしたことで生まれた結果なのだ。

 

 

 

一方で「I could do〜の文は、あくまで可能性の指標なので、人によっては上手くできたと思っていた料理をできていないと評価するかもしれないし、話せていたと思っていた英語が全く彼らには伝わっていないかもしれない。

 

 

 

「できた」という可能性の定規には、上下の幅があるのだ。

 


そしてその幅は、人によって指し示す場所が違っている。

 


ある人は1〜5をできると思うかもしれないし、またある人は3〜8をできると思うかもしれない。

 

 

 

つまり「できた」は「やった」のような不変の事実ではなく、主観客観的に解釈が変わる「可能範囲的解釈での事実化」にすぎない。

 

 

 

わかりやすく換言すれば、口だけの自己満足なのだ。

 

 

 

「上手に料理できたよ!」というのは真実かどうかわからないが、

 


「料理したよ!」であればそれが真実かどうかははっきりわかる。

 

 

 

一方で後者の文には、クオリティー云々の内容は入っていないので、やったかやっていないかの「0 or 1」事実認識ができる。

 

 

 

故に

「I did〜」事実であると証明でき、

「I could do〜」人によって解釈が変わり事実とは言えないと証明ができる。

 

 

 

 


あなたは人に何かを伝える時、

 


「〇〇ができた」と伝え、自己満足の人間でいたいですか?

 

 

 


それとも、

 
「〇〇をした」と伝え、事実を語る信用ある人間になりたいですか?

 

 

 

 


ぼくは真実を語れる、そんなDID人間になりたい

企業が新入社員の採用時に営業をかけた結果

「うちはブラックだ。だけど博報堂の代理店ほどではない。」

「売り方はグレーなら問題ない」

「自分の予算達成だけを考えろ」

「勘違いさせてでも商談を組め」

 

 

 

これらは実際にうちの会社で飛び交った言葉だったり、共通の価値観だったりである。

 

 

 

 


営業職とはなんて汚い世界なのだ。

 

 

 

 


大学生の頃、僕はビジネスの世界が非常に汚い世界だと思っていた。しかしそこで生き残っていくためには、自分が最もやりたくない「営業職」での経験は必須になると考え、営業商社に新卒での入社を決めた。

 


あれから4ヶ月が経ち、僕のできることは明らかに増え、強みや弱みもより鮮明になっていった。

 

 

 

その一つの自己認識として、どうも僕は周りと逆の行動を取ろうとする傾向があるらしい。

 


みんなが元気のない時はひとりでもテンションを上げていけるし、逆に周りがうるさいと声を発しようとしない。

 


ただ、その割に日本人の特性である「察する力」「理解する力」「汲み取る力」がかなり高いらしく、このせいで仕事中にも潜在顧客の考えていることを先回りして考え、それに良い意味で驚かれることも悪い意味で驚かれることも多い。

 


そして、どうやらこの特性は日常会話レベルでも発揮しているらしく、同僚と会話している中で、その発された言葉の向こうにある思考的な部分も踏まえて言葉を返しているらしく、故に話が噛み合わないことも多い。

 

 

 

 


こういった事実に気づけたおかけで、自分に「伝える力」が足りていないということに気づけた。

 


そして仕事の中で訓練しているうちに、少しずつではあるが「伝える力」はついてきている。

 

 

 

自分の知らなかった強み、新たな弱点とその改善

 

 

 

新たな自分に出会えたこと、それが僕が営業をやっていたからこそ認識できたことだと思っている。

 

 

 

そうして、4ヶ月が経とうとしている。

 

 

 

そんな中で思うことは、会社のビジョンや考え方が自分のそれらとは全く噛み合っていないということだ。

 

 

 

会社は超実力主義で、チームプレーではなく個人プレー。同期を蹴飛ばしてでも結果を出せ、そうすればポストを用意してやる。

という考え方を持っている。

 


一方で僕は、個人と個人から生まれるシナジー、つまりチームプレーを重視し、そのチームを僕がマネジメントし、みんなで評価をされよう。

という考え方なのだ。

 

 

 

 

 

 

そして気づかされたこと、気づいたこと

 

 

 

 


どうやら僕らは、採用や選考の段階から営業をかけられていたらしい、と。

 

 

 

入社前と入社後のギャップは、数え切れないほどあった。

 

 

 

そのせいもあって、新卒の3割は別の地に羽ばたき、中途社員も入っては辞めてを繰り返す人材の出入りが激しい職場になっている。

 

 

 

ここでの未来は僕にあるのだろうか。

 

 

 

会社にとって人材とは、とても大切で貴重な存在であり、成長に最も必要なリソースである。

 

 

 

これは、小さい企業であろうが大きな企業であろうが価値は変わらないはずだ。

 

 

 

特にベンチャーであれば、その質や数は企業の成長を大きく左右する存在になりうる。

 

 

 

僕は、そんな存在になりたい。

 

 

 

だからこそベンチャー企業を選び、自分が最もやりたくない営業職の戸を叩いたのだ。

 

 

 

 


しかし、僕が孤島から大陸へ向かうと思って飛び乗ったこの船は、大きな島にたどり着くエネルギーなどない中で「大陸に行こう」と掲げていた船だったみたいだ。

 

 

 

今の仕事先の状況は、沈んでゆく船から漕ぐ人員が減っている中で、大陸を目指せと言われ船を漕いでいるのに似たような状況にある。

 

 

 

予算もへったくれもない。

ストックフローのビジネスをしていて、

市場が飽和したらどうなるかなんてわかるはずだ。

 


大学生の頃の僕だって、そんなことはわかる。

 


そしてこの商材から手を洗えないこの会社は、その商材の急速な需要が偶然当たって、偶然成長したベンチャー企業に過ぎないということだ。

 

 

 

そして何より面白くないのは、企業という組織にもかかわらず、個人プレーでしか評価しないことである。

 

 

 

僕は一人で仕事をするのではなく、組織にいる皆で何かを創り出し、その創り出したもので会社を大きくしていきたいのだ。

 

 

 

評価は、その時してくれればいい。

 

 

 

 


自然人がひとりで生きられないのと同様、法人もひとりでは生きられない。

 


だから様々な企業と繋がり、様々な人と繋がるのだ。

 

 

 

それでは、なぜひとりの力だけを上げようとする?

 

 

 

 


AIが急激に台頭するこの時代に、本当に必要な能力はなんだろうか。

 

 

 

営業力か?

交渉力か?

 

 

 

いや、ぼくはそれらすらもマネジメントするマネジメント力だと思っている。

 

 

 

それではもう一つ考え込んでみて、

 


マネジメント力をつけるのに必要な力やキャリアは何なのだろうか。

 

 

 

 


ぼくが欲しいのは、ここの考えだ。

 

 

 

 


ぼくがマネージャーに至るまでのキャリアとして、どの進み方を選ぶことが、自分の価値観にとって会社のビジョンにとって社会への貢献にとって最適になるのか。

 

 

 

それをひたすら考えて、仕事をしている。

 

 

 

そして、今回出た一つの答えが

今働いている企業でのキャリアは自分の価値観にあったものではなく、社会が目指している理想の姿でもない。

 

 

 

 

企業が新入社員の採用時に営業をかけた結果、優秀な社員が辞めようとしている。