都市部の闇「傍観」
こんにちは。
今日は頭痛がありません。とーまです。
今日はタイトルの通り、
「心肺蘇生時に個人を指名して役割を支持する理由」
についての記事を書きたいと思います。
運転免許の教習にも学科の実践科目としてありますよね。
「(呼吸していない人がいた)」
「(助けなければならない)」
「(どうすればいいか)」
「(助けを募らなければ…)」
このような状況を仮定して、心肺蘇生の実習を行います。
この中で、こういう場面がありますよね。
「誰か助けて下さーい!!」
「あなたは救急車を呼んでください!」
「あなたはAEDを持ってきてください!」
ここでわかることの一つに、「あなた」と個人を指名して指示を煽っていますね。
あなたは、この理由を考えたことがありますか?
結論から言いますと、
そうしないと「社会的証明の原理」が発生するからです。
どういうことか。
これも簡単に説明すると、
「きっと誰かがやってくれる。」
と解釈してしまうことです。
わかりやすく説明します。
例えば、道端に倒れている人がいたとします。
質問です。
あなたはその人を助けますか?
この質問に、2つのパターンを用意します。
1:周りにはあなた一人だけ
2:周りにはあなたを含め5人が居合わせている
これについて、面白いデータがあります。
ニューヨークを拠点に科学的研究をしているダーリーとラタネの研究結果によると、
1の場合、
倒れた人が援助を受けられる確立は85%でした。
しかし一方で、2の場合は
5人が居合わせたにもかかわらず援助を受けた確立は31%に過ぎませんでした。
この研究結果からわかることは、
その場で「集団的無知」が発生したということです。
つまり、そこに居合わせた彼らは「傍観者」となっていたということがわかります。
そもそもこの研究が始まったきっかけは、「ジェノヴィーズ事件」にあります。
この事件は、ジェノヴィーズという女性が殺害されたという事件です。
一見どこにでも起こりうるようなニュースですが、なんとこの事件の目撃者は38人にものぼったのです。
つまり、自分がその事件に巻き込まれたくないがゆえに、彼らは「傍観者」となったのです。
残酷な事件ですよね。
しかしこの「社会的無知」は、都市部ほど強くなる傾向があります。
その要因は、3つあるとされています。
(1) 都市は変化が断連続的で、そこに属する人々はちょっとした変化に気づきにくい
(2) 都市環境は人が溢れている(周りに誰かが居合わせる可能性が高い)
(3) 人口が多い分、知り合いの割合が小さな町にいる人よりもずっと少ない
つまり都市部の社会的無知を創り出している要因は、「混乱」「人の多さ」「人間関係の希薄さ」が強い傾向にあるからだと言える。
先程の路上に倒れた人の例の戻すと、
「誰もその人を助けていないから助けない」
という心理選択がなされいてるといえます。
では、なぜ人はこのような選択をしてしまうのでしょうか。
端的にいうと、その人が緊急事態に陥っているという確実性がわからないからです。
心肺停止になっている人の横で、「誰か助けて下さーい!!」という人がいたら、そこに居合わせた人は彼に救助の手助けをするでしょう。
その人に救助が必要だという確実性が、声を上げた人のおかげで高まったのですから。
しかし、路上に倒れている人の場合はどうでしょう。
貧血で倒れている、あるいは酒の飲み過ぎで倒れている、もしかしたら麻薬に溺れているかも知れない。
いろいろな選択肢が生まれます。
つまり、その人が今どういう状況なのかということが不確実なのです。
だから人は、その場に居合わせた人たちの行動や視線から「手がかり」を見つけようとします。
確実性を取るためには、その当人に確認を取るか、あるいはその当人から確認を取った人から掛かりを得るかの二通りしかありません。
しかし、前者は自分がどんなリスクを被るかも不確実です。
ナイフで切りつけられるかも知れない。首を絞められるかも知れない。
だから先程の例でいうと、38人の人たちは傍観していたのです。
また、他者が居合わせる場合のほうが救助率は下がるという事実から、このような心理が読み取れます。
「(もし私が助けに行って、結局助からなかったら、私のせいにされてしまう。それならば、ここから動かないで目撃者の証言として事実を語るほうが吉だ。)」
そうです。
「承認欲求」です。
当然ですが、日本以外の国の人にも承認欲求はあります。本事件の例でいうと、アメリカですね。
アメリカのあるメディアはこんなコメントを残しています。
「私たちアメリカ人は、利己的で鈍感な国民になりつつあるようだ。」
このような事実に目を背けず、しっかりコメントを残せるのはさすがアメリカ人と言ったところでしょうか。(上から目線でごめんなさい!)
ここまでの「社会的証明の原理」についての説明、なんとなくでも理解できましたか?
ぼくは記事を書く時、お題だけを決めてとりあえず書いてしまうので、話がいろいろな方向に飛びがちです。
けれど、いろいろな面からパラダイムを紹介できているとは思うので、一つの例でわからなくても、いくつか例に触れていくことでだんだんわかってもらえているはず、と心の何処かで思って書いています。
今回の記事を要約すると、
都市部は社会的証明の原理によって集団的無知を起こしやすい傾向にあり、それはつまり苦しむ人をただ傍観する「冷たい社会」になっている
といった感じですかね。
最後にこんなデータを紹介します。
39%
これ、何の数字だと思いますか。
この数字は、
日本人の中で「自立した生活を送れない人に国家や他者が援助をする必要はない」と、
他者犠牲を容認した回答をした日本人の割合です。
この数値は、世界で1番です。
では、他国ではどうでしょうか。
ちなみに、2位はアメリカです。
なんとなくわかっていたのかもわかりませんね。
その割合は29%と言われています。
しかし、その他の国(フランス、ドイツ、英国、中国、インド)はどこも1割に満たないとの結果が出ています。
この数値は、僕が「フェアトレード」についての卒業論文を作成したときにも使用したデータです。
非常に心苦しいといいますか、ここまで日本人は落ちてしまったのかと少し悲しいです。
現代の魔術師である落合陽一さんも、自身の著書で「日本においての問題は、地方の過疎化ではなく都市の過密化である」と謳っています。
私は心理学の面からこのような都市の残酷な事実にたどり着きましたが、落合氏がその著書で挙げていた都市部の問題とは全く別物でした。
僕は中学生の国語の授業で『最初のペンギン』という内容を勉強したことがあります。
ペンギンたちは日頃、氷の上で生活しているわけですが餌を求めて海に飛び込まなければなりません。
しかし、海にはたくさんの危険が待ち構えています。
この著書のタイトル『最初のペンギン』の意味するものは、「勇敢である者」です。
危険を承知で最初に海に飛び込んだペンギンは、非常に勇敢な心を持ったペンギンです。
これ、人間社会における人助けにもリンクすると思いませんか?
人助けは、ときに偽善者や売名行為と揶揄されることがあります。
しかし、最後にあなたに問いたい。
売名行為だと自分が世間に冷たく見られること、自分が助けた人々に感謝されること
あなたにとって、どちらの承認欲求が大切ですか?
当然、答えは決まっていますよね。
誰かが目の前で困っていたら、あなたが手を差し伸べてあげてください。
その行動が、その人の一生の心の支えになるかも知れません。