「勉強」と「学習」は違う
こんにちは。
とーまです。
い・き・な・りですが!!
(ムムムッの人みたいにすみませんww)
みなさんは勉強が好きですか?
僕はあまり好きではありません。
では、もう一つ質問。
学ぶことは好きですか?
僕はこの問いには「Yes」と答えます。
この違いってなんでしょうね。
この違いを見つけようとネットで検索して探しても、答えは見つからないと思います。
なぜなら、
僕の中で生まれた哲学だから。
勉強と学習の違い、まずは英語で考えてみましょう。
「勉強する」という動詞は、「study」
「学習する」という動詞は、「learn」
言葉自体に違いがそもそもあります。
では、「study」と「learn」の違いって何でしょうね。
ぼくは、本当に勉強が嫌いです。
僕は非常に合理的な生き方をしているので、今やっていることで未来につながらないことにはものすごい嫌悪感を抱きます。
単発で終わることが嫌いなんです。
だから僕は、目の前のことが未来の自分に必ず意味をもたらすと思って吸収できることを吸収しようとします。
そして、僕にとって「勉強する」ことは、特定期間のための短期的な努力なのです。
大学受験、テスト勉強、資格の勉強、色々ありますよね。
基本的に勉強とは、「試験のため」の努力といえます。
僕はこの努力が無意味に思えて仕方がないのです。
そもそも、すでに問題が与えられていることが気に食わないし、点数とったからといって本当に実践で活きるのかもわかりません。
結局誰かのモノサシで測られて、そのモノサシで結果が出たら満足する。
誰のために生きているんですかね。
だって、東大卒でも就職難になる学生はいますし、TOEIC900を超えていても外国人と会話ができない人とか、資格保持者でも結局は経験を重宝されるとか、
一度は聞いたことがありますよね?
これって、それまでの努力は意味あったのでしょうか。
だから、これを見て思うんです。
「勉強する意味ってある?」
そもそも「勉強」と「学習」の違いは、その結果が可視化できるかどうかにあります。
勉強した結果…〇〇大学に合格した。
学習した結果…
??
そうです。
「学習した」といっても、それが数値や成果として出にくいんですよ。
だ・か・ら・こ・そ!!
僕は「学習すること」に惚れ込んでいるのです。
承認欲求の高い人は、勉強します。結果がほしいから。
でもぼくは、すぐに結果が出る努力は本質的な努力とは違うと思います。
「受験はテクニックだ」とか「TOEICはテクニックだ」とか言いますよね。
このテクニックを駆使した自己資本の投資を、僕は努力と言ってほしくないんですよね。
ケイスケホンダとかイチローは、勉強していますか?学習していますか?
僕はこれを考えた時、「学習することこそ本当の努力なんだ」と思いました。
だって、勉強して得たことって再投資できないじゃないですか。
資格ホルダーとか聞きませんか?みんな内部留保なんですよ。
けれど、学習したことって、その何秒後かにはすぐ活かせるんですよ。
再投資できるんですよ。
その知恵の高さこそ、学習能力の高さなんだと思います。
あっ、追加して言いますが、
「知識」と「知恵」も僕の中では全然違います。
「知識」は「インプット」
「知恵」は「アウトプット」
何かを生み出す生産性があるのは「知恵」です。つまり、「アウトプット」です。
そして、そのアウトプットとは「投資(再投資)」です。
つまり「再投資」するためには「勉強する」よりも「学習する」ことほうが大切なのです。
知識を増やしたい人は、勉強すればいいと思います。
けれど、知識と知恵は違います。
動かす脳の部分も違います。
全く別の能力が必要なのです。
自己満足したいのなら、勉強すればいいと思います。
けれど僕は、他己満足をさせたい。
その思いがあるから、自分の目の前で起こる事象からありとあらゆるものを吸収しようとします。その長期的な目標のために。
バタフライ効果ですね。
その言葉知らないという人は、僕の一つ前のブログをみてください。
僕がいま学習することが、5年後10年後誰かを満足させられると思うと、学習意欲は必然と高まります。
僕の成長意欲が止まらないのはこういった理由があるからなんですね。
ブログを書きながら気づきましたw
ほら、この一瞬でも僕はある事象から学びを得ました。
勉強は学校に行けばできます。
けれど、勉強は自分のやりたいことと必ずしもリンクしません。
そういう意味では、勉強の初速は能動的です。
一方で、学習はどこでもできます。
しかし、学習には絶対に「主体性」が必要です。
ここで、思考の練習をしましょう。
りんごが目の前にあります。
このりんご、英語では「apple」といいます。
これが「勉強です」。
しかし一方で、ニュートンは学習しました。
「りんごが落ちた。ここ(地球)には重力なるものが存在するのでは?」
この一瞬の気付きが、その後の実験や検証に繋がり、近代では当たり前となっている「重力」の概念を生み出しました。
どうですか。
勉強からは何も生み出されていませんが、学習からは何年後かではありますが新しいものが生み出されました。
この一瞬の気づき・結果の過程から、そのためにする一貫の自己資本の投資(時間やお金)こそ、本質的な努力だと僕は思うのです。
ダルビッシュ有がこんな名言を残しています。
「努力は簡単に裏切るよ?w」
つまり、無意味な努力を努力と思っていたところで、結果は報われないということです。
もちろん、僕は勉強を全否定しているわけではありません。
「勉強と学習」にシナジーを作ることがもちろん最適解だとは思います。
けれど生きていて思うのです。
「勉強と学習」「知識と知恵」
これらの違いに気づかずに、短期的な結果のためのテクニック努力をしている人が多すぎると。
面白くないんですよね。
すぐ結果が出ることが。
それって誰にでもできるってことじゃないですか。
(まあやっている人しか結果が出ないという捉え方もできますが。
特に日本人は、始めること・継続することができないらしいので、そういう意味での差別化はできますけど。)
僕のように、自分の存在意義を探している身からすれば、
サッカー選手になるのではなく、ケイスケホンダのように目標や夢のためにわが道を貫く人間になりたい。
プロ野球選手になるのではなく、イチローのように努力を努力と思わない志の高い人間になりたい。
あなたは誰になりたいですか?
誰かになりたいですか?
自分になりたいですか?
物事を哲学的に捉える努力をすれば、物事の本質は見えてきます。
それはつまり、あなたの本質性の可視化になります。