賢者への道ブログ

歴史から学ぶ賢者となり、未来を考える力を養う。

あなたは多様な人間ですか?それとも同質な人間ですか?~鳩の多様性~

「今の時代は多様性が大事だよね~」

「多様性がなければこれからの時代は生きられない!」

 

 

近年「多様性」という言葉が、

巷(ちまた)やSNSを通して多く飛び交っている。

そう、グローバル世界を経験した我々は

社会の様々な面を見てきたのだ。

 

そうして「個人主義」が台頭してきた

2010年代では、特にこの「多様性」に

着目した考えを持つ人が増えてきている。

 

 

職業を見れば、それは一目瞭然なはずだ。

 

前近代は「終身雇用」が絶対という観念があったので

なにか一つの道での「プロフェッショナル」が

共通観念としてあり、それ以外に何か

仕事をするということはほとんどなかった。

 

しかし近代では終身雇用体制は崩れ去り、

企業に務めながら違う職を持つ

マルチ・ワーカー」が増えてきた。

 

それは芸能人を見ていても気づけるだろうし、

何よりも副業可の企業が増えたことが

一番の要因だろう。

 

 

しかし、どうも「多様性」に関して

間違った解釈をしている人は多い。

 

 

本記事の主題は、ここにある。

 

詳しくは、本論で話していく。

 

 

 

1. 多様性とは

 

 

そもそも「多様性」を考えるに当たり、

「何においての多様性か」を

考える必要がある。

 

 

例えばダーウィンの『種の起源』のように

「生物の多様性」なのか、

それとも人間社会においての

「生き方の多様性」なのか。

 

 

「〇〇の多様性」といったように

ダイバーシティ(多様性)」を論じるためには

その前提として「ユニバーシティ(万物性)」を

定義する必要がある。

 

 

今回の例で言えば「〇〇」の部分、

つまり「生物」「生き方」の部分が

「ユニバーシティ」に値する。

 

 

「多様性」を考える以上は、

何にフォーカスしているのかという

「万物」の部分を無視してはいけない。

 

 

 

2. 生物の多様性

 

 

先ほど例に出した『種の起源

 

ダーウィンのこの著書の中には、

ある鳥類がよく例として出される。

 

 

 

その鳥とは「」だ。

https://fr.cdn.v5.futura-sciences.com/buildsv6/images/wide1920/7/d/7/7d7e7fc68d_113437_intelligence-pigeon.jpg より引用) 

 

彼によると、鳩には個体差があり

同じフォルムをしていても

各々模様が違っており、

同じ模様はないらしい。

 

 

(偶然にも僕はこの鳩が大好きで、

インスタグラムには日々見つけた

鳩の写真を乗っけて投稿している)

 

 

人間も同様で、ほとんどの個体には

 

頭があり

腕が二本あり

足が二本ある

 

なぜかはわからないが

基本的にこのデフォルトで決まっている。

 

 

 

 

すべてダイバーシティは、

ユニバーシティの中に存在する。

 

 

そして人間であれば、必ず 

 

・性別・・・男性、女性など

・人種1・・・アメリカ人、フランス人など

・人種2・・・白人、黄色人種など

・髪色・・茶髪、黒髪など

 

のいずれかに該当する。

 

 

 

3. 多様性の議論

 

 

このように物事を定義する上では、

必ず分類というのがなされる。

 

(そもそもこの「分類」のために

人間はコミュニケーションツールの

一つである「言葉」を使っている)

 

 

そして近代の多くの人が使う

ダイバーシティ」は、

基本的には以下である。

 =======

・地球に住んでいる

・人間という生物であり

・極東日本に住む

・日本人

 =======

 

ダイバーシティを語る上で

暗黙知(前提)としてこの

4項目が存在している。

 

これをわかった上で

議論を交わしているわけである。

 

 

多様性の議論をするにあたって

この前提条件を忘れては

まさに「会議は踊る、されど進まず」

になりかねない。

 

 

 

4. 日本人の多様性

 

 

多くの多様性論者が思うことは

「日本人に多様性はあるか」

というところだろう。

 

 

結論から言うと、日本人に多様性はない

むしろ、排他性のほうが強い。

 

 

日本人は、先程の定義の4項目に属さない人を

何故か寄せ付けようとしないのだ。

 

これが「日本人は排他的である」と

考えられる所以(ゆえん)である。

 

 

ちなみに日本人というダイバーシティ

地球というユニバーシティにおいて

突出しているのは「共感力」「同調力」である。

 

 

偶然か必然かはわからないが、

多様は一番遠い存在であるということがわかる。

 

 

特にわかり易い例は「教育」だろう。

全小中学生は一律な教育を受けている。

 

日本の近代教育は、個々人に対しての最適解よりも

最大公約数的な教育をしてきた結果、

限界費用は下がってはいるが

共感性が増しダイバースから遠ざかっている。

 

 

もし多様なのであれば、

生徒一人ひとりにあった

教育カリキュラムを組んで

そして勉強していくはずである。

 

(ITがそのソリューションを担う

可能性があると指摘している人もいる)

 

 

つまり日本教育は

非常に合理的になっている一方で、

多様性が必要な社会には

大きな弊害になってしまっている

ということだ。

 

 

しかも特に悪なのは

ダイバーシティ」に関する議論も

「共感前提」で行われている点だ。

 

 

最近はその共感を「いいね」という

指数で管理することができ、

多くの人が何に興味を持っているのか

という「トレンド」がわかってしまう。

 

日本人の特徴

「共感前提のコミュニケーション」

の発揮だ。

 

 

もしあなたの周りにいいねを欲しがるやつがれば

いいねをくれてやったあと、こう言ってやればいい。

 

 

「この、いいね厨」

 

 

多様性が必要な社会にとって

おそらくそういう存在は弊害となる。

 

そしていいねを欲しがる人が

インフルエンサーになれば変な

影響力を持ち始めてより

多様化への移行が難しくなる。

 

 

 

最後に

 

 

ここに綴った内容は、少し主観的だったかもしれない。

 

しかしもしあなたが「多様性」の持ち主であれば

ぼくという個体の主張とあなたという個体の主張の

何が一緒で何が違うのか

ということがわかるはずだ。

 

 

ただ、僕の場合は「多様性」の主張ではなく

「多様性の前提」の主張をしているわけで

そもそも同じユニバーシティにいないかもしれない。

 

 

多様性を論じる上で最も大切なのは「前提条件」だ。

 

 

企業であれば「ビジョン」

 

同じビジョンを持った者のうち、考え方に差異ができたとき

その時初めて「ダイバーシティ」は生まれる。

 

ダイバーシティは、言い換えれば「差異」のことだ。

 

 

色でいえば、白と黒、赤と青

これらにはすべて差異がある。

なぜなら「色」という前提条件があるからだ。

 

しかし、これが「白と人間」となった瞬間

差異は生じなくなる。 

なぜなら、比べるもの(共通項)がわからないからだ。

 

 

 

ちなみに、日本人は共感能力が高いと説明したが、

共感能力が高い人ほど「ネガティブ」である事がわかっている。

 

 

特に「痛みへの共感」は、日本であれば狩猟時代から

遺伝的に備わっている。

 

 

例えば「村」という集合体の中で

なにか悪事を働いた子どもに対して

処刑をしているシーンを見れば、

そこのいる村人には「痛み」が共有される。

そして主は、そんな村人に対して

「こうなりたくなければ言うことを聞け!」と

脅迫するだろう。

 

もちろん、このシーンには

ダイバーシティなど存在しない。

 

 

しかし、こう見ていると

昔の村制度と今の日本企業とが

類似して見えてしまう。

 

 

もしかすると、日本企業は…