賢者への道ブログ

歴史から学ぶ賢者となり、未来を考える力を養う。

夢を哲学せよ~「目標」の導き出し方~

「人生をかけてやり遂げたいことは、一体何だろう。」

 

 

僕の社会人生活は、こんな自問自答から始まった。

 

 

 

僕はいままで、これといった目標を持ったことがない。

部活動、受験、就活、それらをすべてなんとなくやっていた。

もちろん手を抜いてやっていたわけではない。

実際レギュラーで出場したし、受験も学費免除で通える大学に受かったし、内定も人のいい会社からもらった。

だから、その日々が無駄だと思っているわけではない。

けれど、何故か釈然としない今日このごろ。

もっと熱量を持ってやっていたらどうなっていたのだろうか。

そんなアナザーワールドの自分を考えることが増えた。

人はそれを「後悔」と呼んだりする。

しかし、僕は過去の自分を悔いているわけではない。

なぜなら、今こうやって人生を振り返る機会・考える機会に出会えているからだ。

 

 

なるほど自分の人生を振り返ったとき、僕はなんの目標もなく日々を過ごしていた。

そのことに社会人になって気がついた。

 

 

ことの発端は、仕事を楽しく感じられないと自分が思っていることに気づいたことから始まった。

 

そしてその原因はおそらく、自分に目標がないから頑張れないのだと仮の結論を出してみた。

 

 

 

目標というのは、ある種の憧れ希望、おそらくそういった類いのものだと思う。

つまり目標とは「自分がやりたいこと」だと換言できる。

 

しかし、ぼくにはその「やりたいこと」がなかった。

 

 

最近僕が読んで考え方が似ていると感じた著書『公共性主義とは何か』には、こんな文言が書かれている。

 

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「行動には感情や情熱が必要で

いくらそこに想いがあっても

人間はそれだけでは行動に移せない」

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この文は僕が要約しているが、たしかにこの言葉は論理的に正しい。

 

あなたも「行動が大事」と頭の中で理解はしているが、なかなか実際に移すことはできていないはずだ。

 

 

 

話を戻すが、振り返ってみれば僕にも目標はあった。

 

「レギュラーになりたい」

「志望校に合格したい」

「良い企業に就職をしたい」

 

 

自分が立てた目標たちを実現してもなお、自分の選択に疑問を持ってしまっているのは、間違いなく「情熱」や「感情」が足りなかったからだろう。

 

 

 

幼い頃の僕は、些細なことで泣いていたし、仕返しに人を泣かせたりもした感情豊かな少年だった。

 

それが程なくして、僕は理性的になっていた。

 

わかり易い例を出すと、陽キャ陰キャなったようなものだ。

 

 

 

そのくらい僕は変わった。

 

 

変わらないことといえば、全時代の同級生に「ヤバイやつ」扱いされていたことくらいだ笑笑

 

 

しかし、いつからだろう…僕が感情を失ったのは。

いや、正しい表現をすれば「感情を抑えるようになった」といったほうが良いか。

 

 

 

いずれにしても、今の僕は感情をほとんど表にしない。

 

おそらくそのきっかけは、高校の同級生に言われたある一言が原点になっているような気がする。

 

「お前は黙っていればモテるんだけどな~」

 

 

これによって僕が黙り決め込み、感情を表に出さないようになった、とすれば

自分にとっての「かっこいい人」は「無口な人」と解釈したからなのだろう。

 

 

ただこの推測はかなり正しいと思っていて、

なぜかというと、僕はその頃からアーティストの「GACKT」を好きになったからだ。

 

 

あなたの知る「GACKT」は、おそらく口数少な目で佇まいの美しい男

であるはずだ。

 

 

無論、これは僕が彼を知ったときの第一印象だが。

 

 

もちろん、好きになったきっかけは「音楽」だ。

 

僕も彼も異質という面では同じ部類であり、僕はある意味共鳴してしまったのだ。

 

 

GACKT歴というべきかわからないが、僕が人間「GACKT」を好きになって今年で6年目になる。

 

そして今では、異質さの中での異質さを見つけられるまでに成長した。

 

 

例えば、彼は「悩むことは停滞・後退」としているが、

僕は悩みについて「自信をつけるチャンス」と思っている。

 

 

理由については省略するが、もしコメントで気になるという人が出るのであれば、喜んで共有します。

 

 

 

 

我々は人間である以上、理性も野生も両方あるのは間違いない。

 

 

しかし僕は、野生先行の生き方は人間のすべき生き方ではないと思う。

 

 

せっかく弱肉強食の生物ヒエラルキーから逸脱している存在なのに、

なぜもう一度野生の世界に戻るのかわからないからだ。

 

 

だから僕は「競争社会」は好きではない。

 

「共存社会」になればいいのにとずっと思っている。

 

 

 

野性的な人間とは「感情的で情熱的で、夢を持った人」のこと指している。

 

こういう人が、自分の夢に対して貪欲であり、達成するために全力で取り組むのである。

 

 

けれど人間みな野性的かと言われれば、そうではない。

 

僕もどちらかというと、野性的ではない方の部類だ。

 

 

 

ここで、もう一つ考えなければならないことがある。

 

 

 

野性的な人には達成したい目標がある一方で、理性的な人には達成したい目標があるのか

 

 

 

 

僕はこれに関して、すでに答えを導き出している。

 

答えは「YES」だ。

 

 

 

僕は理性的な人間だから、目標に貪欲に取り組めないのかもしれない。

たしかにある種の決めつけ・固定概念めいているかもしれないが、

もちろん諦めをつけるためにこんな事を言っているわけではない。

 

 

むしろ「目標の種類が違う」ということに、このことから気がつけたのだ。

 

 

 

 

どういうことかというと、野性的な人の目標は非常に利己的な一方で、理性的な人の目標は社会的な課題の解決に置かれることが多い。

 

 

もっと簡単に言うと、目標の立て方が違うのだ。

 

 

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野性的な人:「~したい」→目標を立てる

理性的な人:「~すべき」→目標を立てる

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これに気づいた僕は、自分のやりたいことからではなく、

自分のすべきことから目標を立てられることに気がついた。

 

 

それは社会課題であったり、時代の流れであったりから立てることができる。

 

 

そして昨日から今日にかけて、とうとう自分の人生・仕事を通してすべきことが明確になった。

 

それは、、、